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従業員に過重労働を強いるという「ブラック企業」を生み出しているのは、それにも増しておそろしい「ブラック消費者」とはいえないでしょうか。より安くよりよいサービスを求めるのは賢い消費者の条件であります。しかし、それが度を超えてブラック消費者になってしまってないでしょうか。
お客様は神様なのでしょうが、そのような客としての傲慢がその会社の従業員やアルバイトにしわ寄せを生んではいないでしょうか。タクシーの運転手のささいな口の利き方で腹を立てたりしていませんか。本来はサービスの受け手と出し手は平等なはずです。お客様に感謝をするのは商売人としては当たり前ですが、消費者としてもサービスの担い手にも感謝をするのが当然ではないかと思っています。
よりよくてより安いサービスを。しかし、それが行き過ぎてしまい、過当な価格競争をするのはサービスの提供者だけでなく受け手の行動にも原因があります。多少価格が高くてもより安全性の高いものがウケるということになれば、サービスの提供者も安全性を高くし少しコストをかけて、その中で価格競争をしていくでしょう。
社会全体で給料が下がっていく。給料が下がる中でやりくりをしなければいけない。だから、消費者とするとより安いサービスを提供する業者にいかざるをえない。そうなるとその業者で働く労働者にしわ寄せがくる。そしてその労働者に過重労働か賃金引き下げのプレッシャーがくる。するとその人自身がブラック消費者になって、飲食店で怒鳴る。――というバッドスパイラルが起きています。
ある意味では、今回の事故を引き起こした原因を知らず知らずにうちに私たち全員で作り出しているかもしれない。
いろいろ思うことはある。世の中には親に愛されず深い心の傷を負っている人や、親の愛の欺瞞にのたうちまわる人もいる。どうしたらいいかといえば、そこに神の愛があったのだと気がつくほかはない。そしてそれが確信できるまで、苦しみは続く。
人はこの世の愛を乗り越えるまで苦悩する。
今でこそ日本人も設計図を作ってから建物を建てますが、日本の江戸屋敷には設計図がないんです。
江戸屋敷では最初に床柱を何にするかを決めます。それによってその家の風格が決定付けられるんです。安いものを使うと、ほかも全部安っぽくなってしまう。床柱の次は隣の引き戸を作ってとやっていって、そういうことが終わってから初めて「部屋の広さどうしようかなあ」となる。つまり、細かいところから入っていって、少しずつ作っていくんです。そして、1部屋できたら、「隣の部屋どうしよう」となる。
ここで大事なこと。まだ、玄関もトイレもお風呂場もないんです。部屋を建て増しで作っていって、ある段階で「玄関やお風呂場をどこにしよう」というやり方で作っているんです。
何が基本になっているかというと、室町時代以来そうなのですが、畳の大きさの天地180センチ、横90センチ。これをレゴみたいに組み合わせていく。こうしてできあがったものは上から見ると、教会を上から見た時の十字架とはまったく違ったものになる。右と左がごちゃごちゃなんですよ、ところどころはみでたりして。
つまり、日本の建物の最大の特徴は建て増しだということです。これが外国の人に違和感を与えるんです。整理すると、外国は全体から部分へ行く、日本は部分から全体に行く。これはまったく違う発想なんですよ。
現在の日本では、大学受験など将来に備えて高校生のときに文系・理系にコース分けされますが、多くの学生が、自分の適性を正しく把握できておらず、将来に悔いを残すことも少なくありません。高校で進路を決める際に重視されるのが数学の成績であり、数学が苦手な人は文系、得意な人は理系と割り振られる傾向にあります。しかし、文系であっても、経済学では確率微分方程式のような高等数学が用いられますし、生物学のようにあまり数式を用いない理系科目もあります。数学の得手不得手は、必ずしも文系・理系の適性を決定するわけではありません。
私の考えでは、文系と理系を隔てる最も大きな差異は、世界中に緊密に張り巡らされたロジックのネットワークを実感できるかどうかだと思います。理系で扱う対象は、通常、異なる地平からのアプローチが可能であり、複数の学問の間でデータの交換が行われています。例えば、ある動物が摂取した食物がどのように代謝されるかを考える場合、動物行動学から量子化学に至るさまざまな研究方法があり、特定の分子構造が環境への適応度を左右する因子として棲み分け理論に援用されたりします。このように、複数の学問の相互乗り入れが可能になっているのは、自然のあらゆる現象が、孤立して自存することなく、法則によって互いに深く関連しているからです。理系の学者は、学問的方法論を駆使して、さまざまな方向から法則というロジックの網目を辿っていくことにより、自然の謎を解き明かそうとしているのです。
これに対して、文系の学問では、学問の相互乗り入れはあまりないように見受けられます。もちろん、マクロ経済学の研究に、経済行為の担い手である投資家や消費者に関する心理学的な分析が盛り込まれるといったケースもあるでしょうが、一般に、ある研究対象に関して1つのジャンルが成立していると言えそうです。文系の対象も自然現象の一部なので、根底にはロジックのネットワークがあるはずですが、人間が介在することによって法則性が見えにくくなっているため、どうしても(景気動向のような)対象の性質を抽象的に表す概念を用いざるを得ません。こうして、ジャンルごとに独自の学問的概念が多用されるようになり、ますます、学問間の交流は困難になっていきます。
理系的な発想の1つに、「わからなくなったときには先に進め」というのがあります。実際、勉強している途中で難しくてわかりにくい箇所に出会ったときには、そこでいつまでも悩んでいないで、先のページに進む方が、結果的に早く理解できることが少なくありません。これは、ロジックのネットワークをある方向から辿って行き詰まったとしても、常に別の方向からのアプローチが可能であり、先のページにその説明が記されていることがあるためです。方程式を見ただけではわからないことも、具体的な応用例で示されれば腑に落ちるというものです。このほか、「空白はロジックで埋められる」というのもあります。私自身、論文を読む際には、前半の1/3程度にしか目を通さない場合が多く、各段落の最初の文章だけを飛び飛びに読んでいくこともあります。データの種類と方法論さえわかっていれば、内容が予想できるからです。一般的に言って、理系の人間は理詰めでものを考えますが、1つの信念に従って直線的に思考するのではなく、さまざまな方向から理詰めのアプローチを試みる特性があるようです。
おそらく、文系の人間には、「ロジックで空白を埋める」という発想は皆無でしょう。ロジックの重要性は認めるにしても、一歩一歩着実に学説を組み上げていく際に用いるものであって、多面的・多層的にロジックを使い回すことはないはずです。ロジックで埋められない部分は、全体を見渡す総合的な視座から説明を加えていくのが、文系的なやり方と言えるでしょう。
こうした意見は、私が理系人間だけにかなり偏っているかもしれませんが、一つの見方として受け取ってください
kml:
@jj1bdx:
@swmemo:
“システマティックに考える能力が日本人にないのではなくて、日本語がシステマティックでないのだょ。” tumblr.com/xiw21rz…英語もボロボロなのは同じ.だけど型がある.不思議に.日本語におけるシステマチック能力に課題がある人は、英語でも同種の課題を抱えていることが多い。
言語文法は英語もフランス語やドイツ語に比べれば総崩れに近い状態なんです.でも思考と意思を伝える型は,日本語よりも定型化されているので,扱いやすい.日本語に問題があるとすれば,読書感想文に代表される外部とのコミュニケーションを拒絶した文章を書いてしまいがちになることかな.でもこれは日本語だけの問題じゃなくて,日本の教育の問題.